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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第2節 再びボロアパート [7]




 なぜだ? どうして自分は、霞流慎二なんかに惹かれるのだろう? 単に容姿が魅力的だから? 優しくしてもらった思い出が忘れられないから? ただそれだけだというのならば、そんなものはテレビの向こうのアイドルに夢を重ねているだけの憧れにすぎないのではないのか?
 そうかもしれないんだけれど、でも。
 机の下で拳を握る。
 でも自分は、やっぱり霞流さんが好きなんだと思う。
 あの冬の日。抱きつく霞流を突き飛ばし、怪我をさせたと思いこみ、警察沙汰になるのではないかと慄き、薬物の存在に身を凍らせたあの日。それでも自分は、霞流から離れたいとは思わなかった。薬物を使用しているかもしれない霞流慎二から、逃げようとは思わなかった。
 きっとあの時、自分でもちゃんと理解したんだと思う。やっぱり自分は霞流さんの事が好きなんだって。あの場所で。
 あの場所で?
「あ」
 思わず声をあげ、慌てて口を押さえる。小さかった為か、誰も気づかなかったようだ。ホッと胸を撫で下ろしながら息も吐く。
 あの場所。
 怪我をしたと思われた霞流をユンミと一緒に運び込んだ部屋。
 あそこになら、隠れる事ができるのではないのか?
 あの部屋はたしかユンミさんの部屋。
 掌にじっとりと汗が滲んだ。スカートのポケットを(まさぐ)り、携帯を取り出す。休み時間までなんて待てない。周囲の視線を気にしながらメールを打つ。ミニテストを始めると言って、教師がプリントを配りだした。慌てて携帯をしまう。
 放課になったら、すぐに学校を出よう。聡や瑠駆真に捕まってしまったら大変だ。
 早く授業終わらないかな。
 午睡を誘う授業をもどかしく感じた。



「で? アンタはこれからどうするの?」
「どうするのと言われても」
 美鶴は薄汚れたカーぺットの上にペタンと腰をおろした状態でとりあえず答える。風呂場では下着が揺れている。
「とりあえず、何か飲みたいんですけど」
「ココはセルフです」
 仕方なく立ち上がり、一人暮らし用と思われる小さな冷蔵庫を開いた。
「このペットボトル、飲んでいいですか?」
「何?」
「えっと、爽やか天然水って書いてあります。あ、でもグァバって」
「あぁ、いいわよ。アタシは飲まないから」
「飲まないのになんで入ってるんですか?」
 誰かが持ち込んだのかな? 霞流さんとか?
「二本もらって一本飲んだんだけど、マズかったのよ」
 マズかったんですか。
 だが好奇心と喉の渇きには勝てず、取り出して冷蔵庫を閉め、蓋を開けた。恐る恐ると一口飲んでみる。
 マズい、かな?
 美味しい、絶品、といった言葉が口から出てくるような代物ではなかった。だが、飲めないワケでもなかった。青臭いような苦いような舌触りで、最初はマズいかもと思ったが、二口、三口と飲んでいくうちに、なんとなく美味しいような気もしてきた。
「グァバなんて珍しいですね。見たことないな」
「この辺じゃ売ってないからね。沖縄にでも行けば買えるんじゃない?」
「沖縄の人に貰ったんですか?」
「ううん」
「じゃあ誰に?」
「フィリピーナ」
「へぇ」
 もう一口。
 一年前くらいなら驚いてたかもしれない。だが今は、フィリピン人から物を貰ったと聞いても大した驚きは無い。
 霞流を追って繁華街に入り込んで、日本には美鶴が思っている以上に多くの外国人が居るという事実を知らされた。東南アジアからの人間だと聞くと不法入国なんて言葉が頭に浮かんだりもするが、ちゃんと合法的に来日して、正規の職に就いて働いている人も多い。多いし、そうやって働きたいと思っている人も多い。だが、日本人がそれを受け入れたがらない。
 フィリピン人? どうせ日本に来れば夜遊びがてら大金が稼げるとでも思って来たんだろう?
 そういう前提で見ているから、少し体調を崩して休みを取ろうものなら、すぐに責められる。
 ほらみろ、東南アジアだとか南米だとかから来た人間はすぐに休みたがる。
 休みの日数など、今はむしろ日本人の方が多いかもしれないのに、まるで怠け者であるかのような扱い。二度ほど有給を取っただけで解雇されたという人もいる。日本人なら、無断欠勤をしても厳重注意で済まされてしまうのに。
 一度解雇されると、すぐに次の職を見つけるのは難しい。異国という環境に加えて、今の日本の就職状況は厳しい。
 夜の繁華街には、そうした外国人も多い。
 母が水商売をしているから外国人の存在は小さい頃から知っていた。今のマンションに住む前のボロアパートにも、外国人は住んでいた。だが母の詩織が勤める店では外国人は雇ってはいなかったので詳しい事情は知らなかったし、彼らと接する機会はあまりなかった。
 繁華街の未成年立ち入り禁止の店に出入りし始めた頃は、彼らや彼女らの存在を少なからず意識した。だが、それは本当に最初の頃だけだった。未成年である美鶴にお酒を勧めたのは日本人の男性だった。咎めたのはブラジル人だった。
「ダメヨ、コノコハマダハタチマエデショ」
 チッと舌打ちをして席を離れる日本人の方に、むしろ距離を感じた。
「未成年ガこんなトコロにいたらダメヨ」
 肩を叩きながらそう呟くタイ人男性も居た。
 国籍って、なんなんだろう?
 ふとそんな事を考える時もあった。
「あら、イケるクチ?」
 グァバ味の天然水らしき飲み物を定期的に口に含む美鶴を面白そうに眺めるユンミ。
「マズくはないですよ」
「へぇ、アタシはダメだな。南国フルーツは好きなんだけど。そういえば前にマンゴスチン味とかっていうジュースをもらった事があって、あれは美味しかったかな」
「マンゴスチンって、マンゴーのことですか?」
「知らない」
「グァバって南国の果物なんですか?」
「知らない」
 あっそう。
「アンタ、有名私立高校の生徒なんでしょ。アンタの方が物知りのハズなんじゃない?」
「受験に必要の無い知識は持ち合わせてはいません」
「ふーん」
 そこで会話は途切れ、美鶴は仕方なく再びカーペットに腰を下ろした。ユンミは同じように腰をおろし、板に四本の足だけをくっつけたようなテーブルともちゃぶ台とも言えるようなモノの上に片肘をついて携帯を弄っている。部屋には窓は一つだけ。日当たりは良いとは言えない。以前はこのような部屋に住んでいたのだが、やはり一年もの間を高級マンションで過ごしていたからだろうか、その粗末さが気にはなった。
「ユンミさんって、ココに住んでるんですよね?」
「いっつもってワケじゃない。むしろいない時の方が多い」







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